tommy_0’s blog

自己紹介

「具体⇔抽象」に生きる

↑を読んで、自分なりに体系立てて整理してみました。

本書の目的としては、抽象化と具体化によって発想を豊かにし、またコミュニケーションギャップを解消することにあります。具体的には、具体と抽象の重要性(Why)、それらは何なのか(What)、具体的にどのように使うのか(How)について解説されています。

↑の説明を読んで気になった人は一読することをオススメします。

前提

心構え、また前提知識について。

正解の捉え方

「問題には正解があり、知識量のみが優劣を決める」という価値観から抜け出す。

知識伝授型の教育では、正解を持っている先生とそれを教わる生徒という構図が根本にある。そこで力を持つのは、正解を知っている知識豊富な指導者・教科書、文献になる。人生における基本的な知識や考え方を一通り学ぶ機会としては有効である一方、その弊害として上記の価値観が一生に渡って植え付けられてしまう。

身の回りの生活や仕事におけるほとんどの場面では、そもそも絶対的正解などなく、「これを解として先に進んでよいのだろうか?」という自問自答のみが存在する。様々な条件下において「最善だと思う選択肢」のみがあり、それをどこまで信じられるかどうか。

重要なのは、自分が下した意思決定について「全て正解」だと思えていること。

鍵となるのは「能動性」

自然な思考の流れと逆行するためには、意志の力が必要になる。

後述するように、物事は「川の上流→下流」のように「抽象→具体」の順番を辿る。具体的に考えるほうが楽で自然であり、抽象概念を操ることは意識しないとなかなか実践できない。

抽象レベルが高い事象になればなるほど理解できる人の数も少なくなる。例えば、高度な抽象化能力を要する数学を理解できる人は少ない。具体的にすればするほど、理解できる人の数は増える。一方で、多数派の人を相手にして「数を稼ぐ」必要があるマスメディアや、ページビューを稼ぐ必要のあるネット広告や記事などは「具体的でわかりやすく」することが求められる。

能動性が成否を決める世界では「残酷な二極化」が進展する。能動的か受動的かという姿勢は四六時中各個人の行動を決めるために、あっという間に大きな差がついていく。端的には、様々な仕組みに対して、「使う側」になるか「使われる側」になるかが決まっていく。ネットや動画をはじめとする「簡易な表現(構造が不明瞭な断片的な情報)」の普及によって、加速されつつある。

何故「抽象化と具体化」が大切なのか

いわゆる Why について。

より効率的に学ぶために

抽象化と具体化という形で発想することで、一から十を学ぶことができる。

知の発展は、2つの軸の相乗効果によって進んだ。具体的には、「知識や情報」による「量的」な拡大と、「具体と抽象」による「質的」な拡大。後者について具体的に言うと、「法則の発見」であり、また「言葉や数といった抽象概念の発展」を指す。抽象化によって生まれた概念を、再び具体化することで、どちらの方向性も拡大する。

具体の世界(「家は家」「ソフトウェアはソフトウェア」「洋服は洋服」)だけで考えるのではなく、抽象化と具体化を繰り返すことで、より多くのことを学ぶことができる。

例えば「持ち家か賃貸か?」について。単に「住む場所」の話ではなく、同じような構図の話が住居 以外 にもないか考える。この議論を「何かを購入して所有するのか、購入せずに都度払いにするのか?」という風に抽象化して考える。これはソフトウェアをパッケージで買うのか、月額払いのサブスクリプションで利用するのかの違いと「ほぼ同じ構図」であり、様々なメリット・デメリットが明らかになる。この「所有から利用へ」という流れをさらに抽象化すれば、経済学などで語られる「フローとスタック」という概念に繋げられる。ここで次は具体化として、社員を「サブスクリプションの商品」として捉えた場合、自身の価値を高めるのに必要な要素を、自分が顧客として使っている魅力的なサブスクリプションサービスから類推できる。また、この組織と人の関係性に関する問題を、友人知人や夫婦関係などにも適用していく、、。

偏りによる弊害に陥らないために

抽象病

具体化の側面が不足し、口だけでアクションに繋がっていないこと。

他人の行動、とりわけ失敗に対して一般的な理想論で批判・アドバイスする。ネットやSNSによって発信者が飛躍的に増えたことで、満たされない欲求の吐口として一気に増えた。

「抽象的目標」を立てるだけ。例えば、様々な目標設定において、このような組織では「〜の徹底」「〜の強化」「〜の最適化」のような言葉が多用される。何を以てそれらができたというのか、結果次第でいくらでもストーリーを作り上げることができる。

結果として、抽象レベルのみで展開される「抽象→抽象」という「机上の問題解決」しか出来ない。官僚主義的な組織でありがちな「顧客ニーズの把握ができていないので適宜迅速に対応策を強化していきたい」といったような「精神論」の域を出ない。

具体病

抽象化の側面が不足し、思考停止した状態のこと。

「ルールや線引き」に従うだけで一切の応用が利かない。一度ルールが設定されると、それを絶対的なものと信じて疑わず、環境の変化に適応出来ない。

言われたことを そのまま実行することしか出来ない。例えば、「部屋を片付けて」に対して「それはつまり『本は本棚に返して、お皿は食器棚に戻して、椅子と机は倉庫に返して、文房具は総務部に持っていって、飲み物は冷蔵庫に持っていって……』ということですか」と返して確認を取らないと実行できない。

結果として、「具体→具体」というように、抽象レベルがない「表面的な問題解決」しか出来ない。その背景、根本的な課題を追求しない状態で、問題解決を行おうとしている。例えば、顧客から「値段が高い」と言われたので値下げするといったような。前例があるからその通りにやるといった形で、過去の成功体験をそのまま当てはめることに囚われる。

抽象と具体について

いわゆる What について。

抽象化

対象物に付随する様々な特徴のうち、ある目的に合致した特徴のみを抜き出すこと。

抽象化の視点は複数あるが、重要なのは、必ず「その場の目的によって異なる」こと。

「目的」によって抽象化の方向性が決まるため、一つの具体から複数の抽象化の方向性が考えられる。例えば、一人のAさんという男性は様々な具体的な属性(性別、身長、体重、特技、趣味、国籍……)を持ってる。抽象化は一通りでなく、複数の切り口がある。例えば、洋服のサイズを選ぶ場面では「身長・体重という体形」での抽象化、入国審査や出国審査においては「国籍」での抽象化など。

また、抽象である程自由度が大きい。例えば、 「タンメンを食べに行こう」よりは、「ラーメンを食べに行こう」「中華料理を食べに行こう」「何か食事しに行こう」の順番でメニューの選択肢が増えていく。抽象化することによって、選択肢が増える。

具体化

抽象化によって定められた枠の中において、相違点を明確にして選択肢を絞り込んでいくこと。

重要なのは、「いかようにも解釈できる」という状態を回避させ、実践的であること。具体的には、「固有名詞」と「数字」に落とし込まれている。なので、例えば「規則正しい生活」は具体化されているとは言えず、実現性がないことを意味する。知識とはある意味で違いを明確にすることであり、それは物事を具体的かつ詳細に観察することで成り立つ。例えば、両生類と爬虫類の違いなど。

問題を解決するフェーズでは、変数を固定し、決められた変数をいかに最適化するかが重要になる。具体化するにあたって、情報量が重要な役割を占める。「抽象→具体」という下向きの矢印は発散、つまり情報量が増えていく。ここで必要なのは、抽象というインプットから具体レベルにつなげるための情報や知識の量になる。

また、具体である程自由度が小さい。例えば、「人」といえば 80 億近くの人という選択肢があるが、これを「女性」と具体化すれば約半数に絞られ、「日本人の女性」とすれば数千万人になり、最後には特定の人物に識別される。

具体⇔抽象を実践する

いわゆる How について。

「具体と抽象」という軸を持つ

そもそも「具体と抽象という視点を持てるかどうか」、そして「今行われていることがどこにマッピングされるか」を確認する。

問題発見すれば、その問題は解決したも同然なように、「具体化や抽象化ができるかどうか」の前提として、まず 認識する 必要がある。

例えば、総論賛成各論反対(客観的な一般論に対しての主観的かつ個別論からの反論)について。SNS 上でよく見られる、A「加害者の人権も認めるべきだ」B「お前は自分の家族が被害者でも同じことが言えるのか?」のような会話。他にも会社で言えば、本社と現場のコミュニケーションが上手くいかないケースなど。この「不毛な議論」に潜んでいる「根本的課題」は、具体と抽象のレベルの異なっているためにそもそも議論になっていない、そして、この状態に両者がきづいていないこと。はじめの「加害者の人権も認めるべきだ」というのは良くも悪くも一般論、つまり抽象度の高い話であり、これに対する「反論」の「お前は自分の家族が被害者でも同じことが言えるのか?」というのは、当然個別・具体的な話をしている。

前提として、他人のことは一般化して抽象レベルで捉える(他人にレッテルを貼る)が、自分のことは特別視して具体レベルで捉えてしまいがち。私たちはいとも簡単に、苦しんだり失敗したりした他人に対して「あるべき論(一般論・理想論)」をふりかざしてしまう。一方で、自分に対してそのような矛先が向いたときには、「自分のケースは特別だからあてはまらない」という言い訳を必要以上にしてしまう。他人とのコミュニケーションにおいて、「自分のことは一般化して考え、他人のことは個別かつ具体的な詳細までを考慮する」という逆のバイアスを意識する。

前提条件を明確にする

まず「違うものを見ていないか」、「どういう条件の下で」「どのような目的で」といった前提条件を確認するところから始める。

コミュニケーションギャップの根本原因は、私たち一人ひとりの経験や知識、あるいは思考回路が異なることによって、「違うものを見ていることに気づいていない」ことにある。

典型的な誤解が生じるパターンは「言葉の定義の違い」によるもの。言葉の定義を行わずに、「正しい」「間違い」の議論を始めるのは、そもそも議論になっていない。例えば、近年話題になることの多い AI に関する議論は、どこまでを AI と定義するかによって方向性が大きく変わる。特定の問題解決のみに焦点を当てたアルファ碁のような特化型 AI と、人間の知能の代替になるような汎用型 AI を想定しているのとでは、議論が全くかみ合わない。自分勝手に解釈をして、よくあるコミュニケーションギャップのパターンに陥る。

川の流れをイメージする

世の中の物事は時間の経過と共に、あたかも川の流れのように「川上から川下へ(抽象から具体へ)」と流れていく。

例えば、何かの報告書や提案書などの書類を作る場合には、概ね抽象度が高いところから徐々に具体的にしていく。まずはその報告書の目的ともいえる、対象者へのシンプルな「キーメッセージ」を確定させたのち、全体の骨格である構成や目次を決定する。次に、実際の内容である文章の作成を行い、最後に誤字脱字のチェックで終わるという全体の流れがある。

また、一人の人間の一生、誕生から死までについて。生まれたばかりの赤ん坊には「無限の可能性」があり、何者になるのか、また何を成し遂げるのかなど、可能性=自由度は限りなくある。それが成長し、教育を受けたり職業に就いたり家族を持ったりということによって、具体的な行動や成果が出てくる反面で、将来の可能性=自由度は良くも悪くも狭まっていく。

問題解決の流れを、川上から川下に向かっての抽象から具体への変換プロセスとして捉える。広義の問題解決は大きく二つ、「そもそも問題は何なのか?」という前半の問題発見と、「その問題をどうやって解決するか?」という後半の(狭義の)問題解決に分けられる。問題発見と問題解決では、向かう方向が、抽象化する「上向き」か、具体化する「下向き」」かという点で異なっている。問題発見に必要なのは、様々な具体的事象から本質的な課題を抽象化して抽出すること。問題解決に必要なのは、定められた枠組みの中で最適化を図ること。

アナロジー思考する

アナロジーとは日本語でいう「類推」で、「類似のものから推し量る」こと。

つまり、似ているものから新しいアイデアを得ること。それは、具体的な類似点ではなく、抽象度の高い類似点であること。例えば、「自動車の座席」と「年末に配られるカレンダー」の共通点は? 共通点探しのヒントとしては、「特殊性が高い」(一般性が低い)ほうに着目して、その共通点が他の一方にも当てはまらないかをチェックしてみる。この場合で言えば、「年末に配られる」というより限定的なワードの入っている後者から考える。「実は使われていないもの」という共通点に着目していくと、様々な社会問題の仮説が浮かんでくる。身の回りで何らかの「構造」を一つ捉えると、ありとあらゆる分野にそれが応用可能になる。

その際に「抽象化のゆがみ」に気を付ける。「複数の事象をまとめて扱える代わりに、個別事象の特殊性を一切無視する」ことにより生じることがある。自分に都合の良い性質だけを取り出して解釈してしまうことがある。誰かの意見に対して「それはことの本質ではない」という発言は、単に認知バイアスが働いていて、自分にとって都合の良いことを前提に意見を言っている可能性がある。あくまでも特定の領域(観点)で思考していることを認識しておく。

終わりに

いわゆる汎用的な物事の考えた、原理原則を学ぶ本でした。抽象に複数の具体が紐づくイメージはあったのですが、具体に複数の抽象が紐づく(抽象化はその目的によって異なる)という説明は新鮮でした。抽象と具体という視点を駆使することによって、一から十を学んでいきたいですね。